
風致景観で有名な闘龍灘ですが、もうひとつ、その奇岩・怪石ゆえに経済的な恩恵を地元にもたらし、暮らしを潤した“名勝”でもありました。
古くは奈良時代から行われていた「舟運(しゅううん)」。川や海、運河などの水路を使って、船で人や荷物を運ぶ方法ですが、兵庫県下最大の一級河川・加古川も例にもれず水運に利用されました。きっかけとなったのは、年貢米の運搬でした。
■加古川を使って年貢米を運べ!
天正18(1590)年、豊臣秀吉が天下統一を果たし、大坂が日本の政治・経済の中心になりました。東播磨や丹波の物資を大坂へ大量に運ぶため、加古川を舟路として利用する案が浮上したのです。
通船を妨げる河床の岩盤を開削し、舟路を完成させよ――。
このミッションにおいて、まず滝野から高砂港までの舟路開通を成し遂げたのが、文禄3(1594)年のこと。開通に尽力した一人が、加古川舟運の祖と呼ばれる阿江与助でした。

■加古川舟運の祖と呼ばれた男
阿江与助正友は、加東郡河高村(現・加東市河高)生まれ。後に上滝野村(現・加東市上滝野)の阿江与左衛門重兼の養子となって、阿江家を継ぎました。
財力を持つ滝野の大庄屋となった与助は、滝野から高砂港までの舟路を完成させると、慶長9(1604)年には田高川(加古川)の開削にも成功します。
こうして慶長 11(1606)年、本郷から河口の高砂港まで全長約 65kmの舟路が開通。与助の功績は、加古川舟運の「祖」と呼ばれるにふさわしいものでした。
現在、「闘竜すくえあ」では、大役を果たし終えた闘龍灘を、今も阿江与助の銅像が見守り続けています。
■舟運の“難所” 闘龍灘
こうして加古川を利用した舟運がスタートしましたが、どうしても舟路を確保できない難所がありました。闘龍灘です。
険しい奇岩の開削が困難であったため、闘龍灘を境に上流部と下流部に二分。丹波地域などから瀬戸内海へ向かう荷物は、船底が浅く平たい高瀬舟で闘龍灘の手前まで運搬。いったん陸揚げした後、闘龍灘下流へ運び、再び高瀬舟に積み込まなければなりませんでした。

しかし、この積み替えが地元に賑わいを生み、難所の特性が経済的な恩恵をもたらすことになったのです。
■難所あればこそ!「舟座」の誕生
荷物の積み替えのため、闘龍灘周辺の河岸(船着場)には舟運の中継基地として船問屋や宿屋などが建ち並び、まちの暮らしを潤しました。

また、加古川を上下する高瀬舟を取り締まるため、積み荷を規制し、船問屋から五分一銀(舟運利益の五分の一を舟の通行税として徴収)という通行税を徴収する役所「舟座」が置かれました。上滝野に「滝野舟座」、船町に「田高舟座」が設置され、いずれも開削に功のあった阿江家、西村家がそれぞれの座元に当たったのです。
しかし、こうした水運も明治に入ると少しずつ様相が変化し始めます。
■物流の要衝から、自然美の名勝へ
明治に入ると、幕藩体制の崩壊により舟座は廃止。闘龍灘の岩場も「掘割水路」により、荷物を積み替えることなく高砂まで運ぶことができるようになりました。舟運の自由化と効率化によって、水路での物流は最盛期を迎えたのです。

しかし、そんな明治時代も後半に入ると、物流の主役が舟から鉄道へと推移していきます。

そしてついに、阪鶴鉄道(現・JR福知山線)、播州鉄道(現・JR加古川線)の開通により、320年間にわたる加古川舟運の歴史は幕を閉じたのです。
かつて、物流の要衝としての役目を果たし続けた闘龍灘。当時の人々が、豊かな暮らしへの思いを紡ぎ続けた景観は今、奇岩・怪石が見せる水しぶきの自然美となって受け継がれています。
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