【加東古は語る #014】銅像・モニュメント編 VOL.4

その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。

奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。

そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えました。

市内に点在する銅像やモニュメント。

特定の人物や出来事を後世に伝え、記憶に留めるための「記念碑」としての役割が大きいようです。

しかし、流れゆく歳月の中で人の記憶も薄れてしまい、「あの銅像は誰?」「あのモニュメントは何のため?」となってしまうことが多くあります。

加東市誕生20周年にちなみ、市内にある銅像、モニュメントを探してみました。


加古川闘竜灘。昭和36年ごろの空撮です。闘竜橋はありません。
もちろん国道175号バイパスもありません。右下は加茂小学校です(現在の滝野東小学校)

出典:加東市教育委員会

闘竜橋が開通したのは、昭和38年(1963年)12月でした。

昭和39年1月10日発行「広報たきの」より

昭和36年10月に起工した闘竜橋は2年の歳月をかけて完成しました。
橋梁延長は108メートル、幅員7メートル、総工費は3460万円余りでした。
昭和38年12月24日、国、県、近隣市町、地元関係者多数参加のもとに、開通式が盛大に挙行されました。

昭和39年1月10日発行「広報たきの」より

昭和32年に計画発表された中国自動車道。昭和49年6月に西宮北~福崎間が開通しました。
そして昭和54年に滝野社インターから加東市多井田地区まで国道175号滝野バイパスが一部二車線で開通しました。多井田地区内の急カーブを回ると闘竜橋から国道175号(現在の県道西脇三田線)に接続していました。

滝野社インター付近で滝野バイパスの開通式が行われた。
昭和54年12月10日発行「広報たきの」より
多井田地区内の急カーブ。矢印の方向に闘竜橋がある。
昭和62年9月10日発行「広報たきの」より

このころの闘竜橋は昼間だけで7000台を超える自動車が走り、一日約300人の歩行者や自転車の通行がありました。

大変危険な橋として、かねてから歩道の設置要望があがっていました。

加東市新町地区内の国道175号滝野バイパス。
昭和54年4月10日発行「広報たきの」より

そこで闘竜橋の下流側にバルコニー付き専用歩道が設置され、平成元年4月24日に渡り初めが行われました。

平成元年5月10日発行「広報たきの」より

バルコニーは、橋の中央部分2カ所に長辺8メートル、短辺4メートル、幅2メートルの台形を川の上に張り出す形で取り付けられています。


【夏の陽(ひ)】

2カ所のバルコニーのうち、1カ所にブロンズ像が設置されています。
魚捕りの網とバケツを持った兄妹像(現在、網はありません)。
また、アルミ鋳物製のスクリーン高欄干「清流の飛びアユ」が取り付けられています。





歩道は小学校の通学路に指定されており、ブロンズ像はいつも子ども達を見守っているようです。


【5月3日 花まつり鮎まつり】

初夏の訪れを感じる「花まつり鮎まつり」の花火大会は、今年も多くの観覧者で満員になることでしょう。
闘竜橋は車輌通行止めとなり歩行者専用として花火見物ができます。

闘竜橋のバルコニーからの見学が特等席になる。 (昨年の花火大会より)

設置された当時の人々や制作者、寄付者などの思いを大切にしながら、まちの将来や平和への願いを込めて――。
市内の銅像やモニュメントが、市民の皆さんに親しまれるパブリックアートとして、また、市の象徴や風景の一つとして、末長く愛されることを祈ります。


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