その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。
奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。
そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えます。
近世の時代、播州加東郡牧野村の北部に広がる原野。ここに初めて鍬を入れ、堤を築いて用水を通したのが江戸の初期、承応3年(1654年)でした。のちの吉馬村の誕生です。
ここ吉馬村を開発したのが高瀬吉兵衛。
今回の「加東古は語る」では、この高瀬吉兵衛をご紹介します。

加東人物伝~歴史を刻んだ開拓者たち 高瀬吉兵衛
慶長10年(1605年)、姫路藩主池田輝政は北野村と多井田村の一部を割いて新町村を造営しました。播磨内の物資輸送の大動脈であった加古川舟運は、対岸の滝野河岸だけでは、狭すぎて不便であったためでした。新町河岸は丹波や奥播磨からの諸荷物の中継地として栄え、ついには対岸の滝野河岸と並ぶ船着場に成長しました。荷受問屋、宿屋、米屋、醤油屋など豪商として繁栄を極めたのです。

元和5年(1619年)に新町村で高瀬舟問屋や米穀の仲買を営む有力な商人の一族に高瀬吉兵衛は生まれました。

当時、牧野村は芝やススキで覆われた比較的平坦な一面の原野でした。水の便が悪く、長らく放置されたままでした。
その原野に着目したのが吉兵衛でした。
記録によると、吉兵衛は牧野村の領主(赤穂藩浅野家)に開発を願い出ました。
あの浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)の祖父にあたる浅野長直(ながなお)は加東郡代河村伝兵衛、郡奉行潮田作兵衛に監督役を命じ工事を許可しました。承応3年(1654年)、吉兵衛35歳のときでした。

ため池を作ると田が広がり、それを伝え聞いて移住してくる者が増え、次第に村が開けてきました。
工事開始からおよそ十数年、水田十数町歩を開き、寛文11年(1671年)の検地では、竿高150石余りを検出。元禄郷帳には、「高154石6斗4升7合 牧野村枝郷吉馬村」と記載されています。
当初、牧野村新田と呼ばれていたこの地ですが、領主は吉兵衛の名と牧野村がかつて馬の放牧地であったことから、村の名前を「吉馬村」とつけるよう命じました。天和元年(1681年)のことでした。

吉兵衛は宝永2年(1705年)12月7日、病により亡くなりました。86歳でした。
浄西(じょうさい)というおくり名が付けられ、その後吉兵衛の功績をたたえ、村の中央に碑が建立されました。
開発当時の寛文13年(1673年)に建立された茅葺き約十坪程度の辻堂(阿弥陀堂)に納められています。
吉馬村の中央に位置し、加東四国八十八ケ所霊場の7番札所でもありました。
【吉馬村吉兵衛の碑】

南無阿弥陀仏
潮田作右衛門殿、畳石塘、成数池、得田水之助、所以令積多日労、旦郡司見顧也。干時寛文十一辛亥仲秋、受竿佶高百五十石余、改山林傍示覚境内号吉馬村給畢、昔此所牧也、
故加拙名以云爾而巳。
その昔、阿弥陀堂のそばに大きな松の木がありました。
落雷により倒れた松の木で絵図の収納木箱を作ったと言われています。


以前は浄西講という集まりを作り、毎年、命日でもある12月7日に供養をしていたそうで
す。その講も無くなってから久しくなります。
今では阿弥陀堂で浄西さんに念仏が唱えられているそうです。

艱難辛苦の末、切り開いた牧野新田、吉馬村。今では整った田畑、整備の進んだ施設。
吉兵衛の夢はりっぱに叶えられたのではないでしょうか。

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