その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。
奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。
そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えます。
加東市は昔から交通の要衝と言われています。
京街道や大坂街道、高砂街道や西国三十三番霊場、加東四国八十八番霊場の巡礼道など「道」が市内を縦横に通り、多くの人々が往来していました。現在でも中国自動車道や国道175号、372号などが通る北播磨の交通の要衝となっています。
道は今も昔も人や物、文化や経済が行き交う役割を果たしてきました。

道は今も昔も人や物、文化や経済が行き交う役割を果たしてきました。ときに戦の道であったり、ときに祈りの道であったり、人々の怒りや憎しみ、喜びや悲しみを運びました。そんな人々を、いつも見届けていたのが道ばたの道標です。
幾歳月の時を越えて、今も佇む加東の道標。今回は加東の道標をご紹介しましょう。
■新町(黒深)の道標

加東市新町の旧市街の南端に近いところ、古い民家のそば、空き地に立派な道標が立っています。
明治45年(1912年)建立と刻まれています。今からおよそ110年以上前に建てられたものです。
三面には
- 「左 やしろ 明石 高砂」
- 「右 多可郡丹波 丹後」
- 「右 きたの 大門 粟生」
と大きな文字で深々と刻まれています。
高さ160センチ、幅30センチ。何と雄大な道標でしょう。この旧道が北は日本海(山陰)から南は瀬戸内海(高砂)まで、南北を貫通する幹線道路であったことを知ることができます。

新町は加古川舟運の河岸として栄えた町で、かつての賑わいを今も残る古い民家や広い道路などが伝えています。その一角に、この堂々たる道標が今も建ち続けていることに嬉しさを覚えます。
新町は当時の加茂村の中心地であり、茅葺き平屋建てが当たり前の時代、新町のほとんどの家屋が瓦葺き2階建ての町並みでした。
①「左 やしろ 明石 高砂」

②「右 多可郡丹波 丹後」

③「右 きたの 大門 粟生」

文禄3年(1594年)に始まる加古川舟運は、口丹波・東播磨の物資を高砂へ運び大いに栄えました。
とくに上滝野村は闘竜灘を境に、上流の田高川から下流の滝野川へと船荷を積みかえる中継河岸でした。

しかし、扱う荷物が多くて捌ききれなかったため、領主池田輝政は対岸(左岸)の多井田村と北野村の一部をさいて、河岸を造立しました。それが新町です。慶長10年(1605年)と伝えています。
この地にはかつて二十数軒の民家がありましたが、慶長初年の大火で全焼、荒地になっていたのを池田氏が目を付けたとのことです。
河岸ができ、人馬や車輌が行き違える道幅3.9メートルの広い道路、荷物問屋や宿屋などが建ち並びました。人々の往来も盛んになり、日本海と瀬戸内海を結ぶ重要な拠点として発展しました。

参考・出典:
・『ふるさと加東の歴史再発見』(藤本百男著)
・『新町の記録』(大久保利政著)
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