その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。
奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。
そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えます。
今回は加東の文化財をご紹介しましょう。

清流と跳び鮎の名所として知られる加古川闘竜灘。
幾重にも重なった岩が、水をまるで龍のような動きに見せていることから、その様を江戸時代の詩人・梁川星巌はこんな詩に読みました。

“一道飛瀧劈地開
怒声豪勢闘風雷
秋入千巌霜葉麗
玉龍躍出錦雲堆”
“(意訳)一道の飛瀧地を劈きて開き
怒声豪勢風雷と闘ふ
秋は千巌に入りて霜葉麗し
玉龍躍り出でて錦雲堆む”
上記を要約すると、岩をかんで激しく流れる滝はまるで竜が闘うよう……「闘竜灘」の名は、この詩から付けられたと言われています。

ここ加古川を開削し、高砂までの舟の道を作ったのが滝野村の阿江与助。文禄3年、1594年のことでした。

今回の【加東古(いにしえ)は語る】は、加東市の礎を築いた人物を振り返ります。
題して「加東人物伝~歴史を刻んだ開拓者・阿江与助~」。
戦国時代が終わり、天下統一を目指す羽柴秀吉に対して三木城の別所長治は、近隣の土豪たちと共に天正6年1578年、秀吉に戦いを挑みました。

しかし、秀吉側は三木城に対して、2年に渡る兵糧攻めの末、天正8年1580年、落城。播磨一円は羽柴領となり、土豪たちは武士から百姓へと変わっていきました。

1590年豊臣秀吉が天下を統一すると、日本の政治経済の中心となった大阪へ東播磨や丹波の物資を運ぶことになりました。しかし、牛や馬の荷車では、早く、大量に運ぶことは出来ません。そこで考えられたのが船で物資を運ぶ舟運が考えられました。

大阪城を築いた秀吉は播磨一円を領土とする強大な領主となりました。また、肥沃な播磨平野の年貢米を大阪へ運ぶため加古川を通しての舟運が不可欠だったのです。

また、水量豊かな加古川が流れ込む高砂の港は、姫路城に入った池田輝政によって整備され、様々な特権を与え、姫路に次ぐ播磨有数の港に発展しました。

こんな理由から加古川を利用した舟運は丹波街道や京街道に変わる物資輸送の重要な手段となり始めたのです。しかしながら、当時の加古川流域には、随所に川床の岩が露出し、水流も激しく、イカダも通らないほどであったのです。
そこで文禄3年1594年、当時姫路城にいた秀吉の一族の木下家定の家来、生駒玄蕃が流域の土豪たちの力を借りて舟運の便を図ろうと、村民の信頼が厚い阿江与助に滝野から高砂に至るまでの開発工事を命じたのです。

阿江与助正友は、河高村の大久保七兵衛政忠の次男として生まれました。その後、滝野村の阿江与左衛門重兼の養子となりました。

阿江家は元々、播磨の豪族、赤松氏の一族で、与助より5代先の重氏が加古郡播磨町の阿江の庄生まれであったことから「阿江」と名乗り、滝野城の城主となりましたが、重兼の父・正兼の代に三木合戦で別所側に加担。三木城没落後は土着し、百姓となりました。

阿江与助の人となりは、はるか茫々の歳月のかなたに深く知るべくもありませんが、伝えるところによると、幼少より経書を好んで読み、その温厚篤実な人柄は村民のひとしく尊信を集めるところでありました。知略に富み、剛健闊達で衆望が厚かったと言われています。
生駒玄蕃が与助に工事を命じたのも阿江家の財力と人望、そして与助の人柄によるものだと思われます。
さて、加古川に船を通すための工事は2期に渡って行われました。
まず、第1期は滝野から高砂までの工事です。数カ所の岩石を切り除き、瀬を掘り下げました。
滝野から大門までを与助が、大門から高砂までを小野垂井村の三郎右衛門と加古川砂部村の彦兵衛が担当しました。

工事を担当した与助ら3人は、いずれも中世土豪の末裔で川筋に大きな影響力を持っていた豪農たちでした。生駒玄蕃は完成後、与助らに免許船の就航など特権を与えました。
こうして開かれた滝野から高砂までは明治初年まで滝野川と呼ばれていました。

続いて10年後の慶長9年1604年再び与助に対して河川工事の命が下り、黒田庄船町の西村伝入とともに加古川上流の開発を行いました。第2期工事です。
こうして遠く丹波の氷上から河口の高砂に至るまでの舟運が結ばれ大事業が完結したのです。
工事後、与助はその功績により滝野に船座を設け、運上銀を徴収する特権を与えられました。

加古川舟運はいままでの貧弱な人馬による陸上運送に比べ、運送革命ともいうべき画期的なことでした。流域に住む人々の生活や文化に大きく変化をもたらしたばかりか経済的にも裕福な人々が増えたと言われています。かつて僻地に過ぎなかった川筋の村々のうち船町・滝野・新町・大門・国包・加古川など舟付場として大きく発展しました。

なお与助の晩年は、その子正家が多可郡の平野新田50町歩余りを開拓、孫の正次は塩谷新田を、ひ孫の友茂は平池新田を開拓するなど開発事業は子孫に脈々と受け継がれました。

与助は寛文11年1671年に没し、闘竜灘を一望する五峰山中腹の丘に葬られました。
のち、大正8年1919年11月、その功績により正五位に叙されました。

大正2年1913年に播州鉄道、現在のJR加古川線が開通したため、およそ320年に渡った加古川舟運は幕を閉じました。

大正8年与助の功績により正五位が追贈されたことを記念し、地元有志の浄財によって銅像が闘竜灘を眼下に見下ろす場所に建立されました。しかし歴史の流れは国民総力戦を唱えた太平洋戦争の昭和20年春、その銅像をも徴収したのでした。
以来、闘竜灘駐車場として使われていた場所に与助の銅像が再建され「闘竜すくえあ」として地域の憩いの場として生まれ変わりました。

通行の難所であった加古川闘竜灘を逆手にとって、通行の要衝とし、そして街づくりの大きな礎と築き上げました。これがやがては鉄道に変わり、高速道路へと変わりましたが、阿江与助の偉業はここに住む我々の心にいつまでも刻まれています。

誕生して20年になる加東市。先人の大きな礎があったからこそ、今があるのではないでしょうか。
本記事内の画像・文章は一部書籍より引用。
引用元の記載なき画像は筆者撮影による。
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