三草山と丹波道【世界に一つ!加東遺産】#010

かとうトリビューンがお届けする【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第10回。今回は三草山と丹波道をテーマにお届けします。

三草山

所在地:兵庫県加東市上三草

TEL:0795-48-2566(滝野総合公園体育館スカイピア)

【三草山】

山頂から昭和池を眺める

加東市の北東部に広がる「清水東条湖立杭県立自然公園」の中にある山塊の最高峰、標高423.9mの山で、山頂から見渡すと、西国25番霊場「御嶽山清水寺」や兵庫教育大学のある嬉野台地、加東市の町並みはもとより、遠くは明石海峡、淡路島から加古川や高砂の臨海工業地帯をも一望出来ます。

山頂にある方位案内盤

山頂にはシンボル塔、記念碑、方位案内盤、記念スタンプ箱のほか、菅原道真公をまつった「三草山神社」があります。

【三草山神社】

三草山登山 畑コース入り口

京都北野天満宮から勧請した「学問の神様」菅原道真公が祀られています。

三草山山頂に佇む神社

「合格祈願」「学問成就祈願」に訪れる人もいます。

【三草山城跡】

三草山城跡石碑「三草山城臺(だい)標」と記されています(臺:周囲が見渡せるよう高く造った建造物)

三草山城は、丹波からの動向をいち早く播磨一円に伝えることができる要衝である三草山の山頂に築かれていました。赤松則村の子、則友が建武3年(1336年)に築城したと伝える旨の石碑が山頂に建立されているほか、廓・土塁・石垣などが残っています。

三草山城縄張り図 出典:兵庫県中世城館・荘園遺跡緊急調査報告(兵庫県教育委員会 昭和57年刊)

現在の縄張りは、16世紀中葉以降に改変されたものとされ、播磨と丹波の緊張した関係を伺い知ることができます。

三草山城想定図

三草山城は、山上に南北約200m、東西70mの形に、最高所に2段の郭(本郭)を設け、東西方向に数段の郭と南北方向に9段の郭を構築した連郭式の山城でありました。

【丹波道を駆け抜ける義経伝説】

平安時代末期に勃発した「源平合戦」の初戦である「一の谷の戦い」の前哨戦が、加東市にある三草山の山麓でくり広げられました。この戦いに勝利した源義経は、時代のヒーローに登りつめて、平家を滅亡させたのです。

加東市には、義経・弁慶にまつわる伝説が数多く残っています。

◆不来坂(このさか)

不来坂

この地は「不来坂(このさか)」という変わった地名で、都から逃げてきた平家軍が、ここまで来れば追手が来ないだろうといって「源氏来ぬ坂」とされた説や、逆に義経がこのあたりで平家軍が待ち構えているだろうと思ったのに、一人もいなかったので「平家来ぬ坂」と言った説があります。

◆只越峠

今は軽トラさえ走ることが出来ない山道に(写真は10年以上前のもの)

播州清水寺の北を丹波篠山市今田町市原から加東市上鴨川までの最短の山道が通っていて、ここを「ただごえさか」といい、「只越坂」とも「多田越坂」とも書くと伝えられています。これは、義経軍がこの山道を越えるとき、周辺に火を放って「只難なく越えた」のでこの名があるとか、義経の道案内をしたのが多田蔵人行綱だったためなどされています。前者は強引なこじつけですが、多田行綱が義経軍に加わっていた可能性もあり、そのことをうかがわせる伝説とみることもできます。

◆播州清水寺

弁慶の碁盤

播州清水寺には現在、「弁慶の碁盤」と称するものが伝えられています。碁盤の目の「二-十六」の位置に黒石がめり込んでいます。これは、武蔵坊弁慶が書写山(姫路市)にいた頃、播州清水寺に遊びに来て住職と碁を打った時に、黒を持った弁慶がこの位置に打って負けたため、腹を立てて石をねじ込んだものだと伝えられています。

◆御所谷(平家谷)

御所谷

只越坂に対して、平氏軍が陣取ったとして、上鴨川から馬瀬方面に1kmほど進んだあたりを「御所谷」とか「平家谷」と呼んでいます。

◆平家本陣跡(モニュメント)

国道372号沿いにある本陣跡モニュメント

「平家物語」によると、義経の率いる軍勢1万余騎は、丹波路を下り、平資盛を中心として三草山の麓に守備する約三千騎の平家軍陣地を夜襲しました。攻撃は明日であろうと油断していた平家軍に対し、数の上でも勝る源氏軍は一挙に陣を破り、平資盛は讃岐国屋島(香川県高松市)へ敗走し、義経はその後、鵯越(神戸市長田区)へと向かったといわれています。

◆弁慶の力石

弁慶の力石

「弁慶の力石」には、弁慶が薙刀あるいは錫杖で突いてあけたという直径10cmほどの穴(凹み)があります。大正期には付近の茶店で「力餅」という餅を売っていたと記録されています。

平家本陣跡のすぐ北

◆いくさ野(かなし池)

現在の「いくさ野」付近

義経の奇襲によって敗れた平氏が、このあたりまで逃げてきて、侍女らが悲しみのうちに池の畔で水を飲んで喉を潤したと伝えられる「かなし池」。現在は圃場整備で池は田圃になっています。

◆薬師堂

薬師堂

下三草の阿弥陀堂の旧地には、平家の侍、平弥兵衛宗清が一門の戦死者のために建立した五輪塔がかつてありましたが、その後、阿弥陀堂と共に薬師堂に移したという伝承があります。現在、字「東山」の丘陵上にある薬師堂の前に数基の五輪塔・宝篋印塔が並んでいます。

◆宝厳寺(喜田)

宝厳寺

下三草の西の喜田には平家ゆかりの寺があり、いくさに敗れた平家の武士をかくまったが、取り囲んだ源氏軍の引き渡し要求に応じなかったため、焼かれたという伝説が残っています。

◆百旗(百旗立)

「百旗」の表示が残るのは、これだけ

社郵便局の東方一帯を「ひゃくはったい」というのは、源氏の旗印である白旗を100本立てて休んだためと伝えられています。

◆下川源氏橋(九郎橋)

明治館の北側、石段を降りたところ

社市街地の南の谷筋に小さな川が流れています。この辺りの字名を「げんじ」といい、ここを流れる小川は、下川といいますが、もともと白川といい、源氏軍が米を洗ったために白く濁ったことから、そう呼ばれたという話もあります。この川にかかる橋を「源氏橋」、「九郎橋」といいます。

◆東実の佐保神社

佐保神社

東実の佐保神社に伝わる「佐保神社記」によると、三草合戦の際の兵火で社殿が全焼したため、祭主の三郎太夫は賀西群河内村(加西市)に避難しましたが、文知元年(1185年)小部野(加東市野村)まで戻り、同5年になってようやく由羅野(現在地)に遷宮がかなったと伝えられています。

◆源ガ坂

国道372号から山国にある熊野神社に向かる坂道

九郎橋の南にある小さな坂は「源ガ坂」ともいわれ、義経が通ったからではないかと言われています。

◆弁慶の投げ桜

弁慶の投げ桜

三草合戦のあと義経軍が掎鹿寺(掎鹿谷)に向かう途中、上久米の千鳥川畔で弁慶の額に桜の枝が当たったので、弁慶がその枝を折って投げつけたところ、地面に突き刺さった枝から根が生えてきて大きな桜の木になったという話が残っています。

◆掎鹿寺

掎鹿寺

三草山の砦を攻めつぶした義経は、進路を久米谷にとり、掎鹿寺(掎鹿谷)で軍勢を整え、一の谷の平家を攻撃する経路を錬りました。これを「掎鹿谷の戦評定」と呼んでいます。

石碑

◆義経の腰掛岩

義経の腰掛岩

源平合戦の頃(平安時代末期)、社町の三草とりでを落とした源義経一行は神戸市一ノ谷へ向かう途中、樫山に立ち寄りました。樫山町にはあちこちに義経の言い伝えが残っており、この石も義経が腰掛けて、ひと休みしたと言われています。また、同町では、源行家と平教盛が戦ったとも言われています。

◆弁慶の重ね石

弁慶の重ね石

源平合戦の頃(平安時代末期)、一ノ谷へ向かう途中の義経一行は、樫山でひと休みしました。とても空腹だったので、近くのおばあさんに食べ物をわけてほしいと頼んだところ、おばあさんは「こんなものでよければ」とハッタイ粉を差し出しました。さっそく食べてみると、とてもおいしかったので、一行はお腹一杯食べたそうです。この奥の巨石は、満腹になった弁慶が投げて積んだと言われています。

◆弁慶の足跡

解説看板

三草の戦いで敗れた平家は、三木を縦走して、一ノ谷へ逃げのびましたが、これを追う義経軍も三木を通って鵯越へと向かいました。跡部の六ヶ井堰に近い畦道に「弁慶の足跡」と言われる大きな石があります。二つの石の表は地蔵尊が彫ってあり、その一つの裏側は人間の足跡のように凹んでいます。途方もないおかしな伝説ですが、跡部(あとべ)という地名や義経軍が三木を進軍したという歴史が、このような言い伝えになったものと思われます。

古絵図によると、この場所は廃寺となった常蓮寺山門跡といわれる

【丹波道(戦の道)】

丹波道は、京都と播磨(姫路)を結ぶ最短ルートで、現在の国道372号は、丹波道を直線的に作り直したような国道です。丹波道は、京都が政治経済の中心であった時代(豊臣秀吉が大阪に政治経済の中心を移すまで)「戦の道」の役割を果たしてきました。

源平合戦

「平家物語」に記載された三草山合戦には、寿永3年(1184年)源義経がこの道を通って京都から小野原(篠山市今田町)に布陣し、山口(加東市)に陣を張っていた平家軍に夜討をかけて破ったと伝えています。

南北朝時代

播磨から京都に入る要衝の地として三草山に城がありました。城主は、赤松出羽守則友といい、建武・文和のころ山名氏との戦いにおいて軍功のあった人です。今も三草山の頂上付近に残っている土塁は、当時のなごりです。

光明寺合戦

建武3年(1336年)足利尊氏が京都から敗走したとき、観応2年(1351年)光明寺合戦に際して、石塔頼房も京都からこの道を経て、滝野に入ったと思われます。

本能寺の変

天正10年(1582年)本能寺の変の時、姫路にいた羽柴秀吉は京都との二度の往復にこの道を通行し、新しい時代を築きました。

阪神淡路大震災

大震災の際にも基幹道路として利用されたことは、記憶に新しいところです。

【丹波道沿いの史蹟(祈の道)】

豊臣秀吉が天下人となり、大阪に政治経済の中心を移すと、丹波道の「戦の道」という役割は終わり、西国三十三ケ所観音霊場巡礼の「祈の道」という役割が大きくなりました。播州清水寺は西国二十五番札所で、現在でも巡礼の姿が絶えることがありません。そして、二十六番の法華山一乗寺(加西市)と二十七番の書写山圓教寺(姫路市)までが、現在でも国道372号(丹波道)で結ばれています。

自動車のなかった時代には、丹波道を多くの巡礼者が行き交ったことであろうと想像ができ、今でも、加東市の丹波道(残っている旧道)沿いには、巡礼にまつわる数多くの石造物が保存されています。これらは私たちが未来に継承していくべき宝であるといえます。

巡礼の墓
上三草地区の旧街道沿いに、2基の墓碑があります。
正面の刻書から文化7年(1810年)肥後国天草郡大矢野(長崎県天草市)出身の方々で、巡礼途中、不幸にして亡くなり、その際地域の人々によって、手厚く埋葬されたことが偲ばれます。

麿崖仏
上三草地区と山口地区の境付近の岩脈が露出した所に、地蔵菩薩立像が半肉彫りされています
像に向かって右側には永和元年(1375年)、左側には行円妻女と刻まれています。像の下に刻まれた合掌する坐像は、願主である親子であろうとされています。
丹波道を通行した人々は、この麿崖仏に色々な思いを込めて祈ったものと理解されます。また、かつての丹波道が移動していないこともわかります。

板碑
麿崖仏のやや南に祀られている板碑で、上の輪郭を天蓋、向かって右側の蓮華座上に定印を結ぶ阿弥陀如来坐像、左側には蓮華座上に立つ地蔵菩薩立像の二尊が彫り込まれています。
永和3年(1377年)とされる姫路的形町円光寺の石仏が非常に類似しており、しばしば対比される著名な板碑です。

【登ってみよう三草山】

急に週末の予定が空いてしまった。天気もよさそうだ。「そうだ山にいこう♪」

少し足を伸ばして気持ち良い山歩きを楽しみたい。そんなときに決まって来てしまうのが三草山。昭和池をぐるりと巡る稜線歩きは気持ちがいい。「登ってみよう三草山」

引用:三草山登山コースガイドマップ

登山口は3つ①山口登山口、②鹿野登山口、③畑登山口。

モデルハイキングコースは5つ。

①三草コース

全長2.4km、所要時間50分~1.2時間
国道372号から南へ300m、「昭和池」北の山すそが登山口。
眼下に昭和池を望むコースです。自然と親しみながらの登山を満喫してください。

②三草古道コース(全長1.8km、所要時間50分~1時間)

昭和池を周遊し、山頂を目指すコースです。

前半は比較的緩やかで、初心者にもやさしく、後半は徐々に傾斜がきつくなりますが、登りきった先にある山頂からの眺めは別格です。

③炭焼窯跡古道コース(全長3.2km、所要時間1.5~2時間)

炭焼窯が点在し、三草山の歴史にふれることができるコースです。また、沢づたいに登る、自然美豊かなコースでもあります。

沢のせせらぎに耳を傾けながら、三草山の歴史、自然を全身で感じてみてください。

④鹿野コース(全長3km、所要時間1.5~2時間)

県道西脇三田線「下久米」から北へ1km、鹿野冷泉のそばが登山口。

右手に兵庫教育大学や嬉野台生涯教育センター、左手に昭和池を望みながら尾根づたいに登る、景色の素晴らしいコースです。後ろを振りかえりながらゆっくり登ってください。

⑤畑コース(全長1.3km、所要時間30~40分)

県道西脇三田線「上久米、朝光寺口」から北へ4.5km、口池の畔が登山口。前半は、木漏れ日の中を歩く情緒あふれるコースです。

5合目でひと休みして、素晴らしい景観をお楽しみください。

引用:三草山登山コースガイドマップ

【世界に一つ!加東遺産】次回もお楽しみに

【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第10回は三草山と丹波道について詳しく紹介しました。

次回の更新をお楽しみに。

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(引用元の記載なき画像は加東市観光協会データベース・筆者撮影による)

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