かとうトリビューンがお届けする【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第9回。
安国寺と足利義教の首塚

今回は、安国寺と足利義教の首塚について詳しく紹介します。
安国寺(あんこくじ)
観光協会ページ
所在地:兵庫県加東市新定851
安国寺は、加東市新定にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
内乱による死者(後醍醐天皇以下の戦没者)の鎮魂・追善や国家の安全を祈願して将軍足利尊氏・直義(ただよし)の兄弟が、夢窓疎石(むそうそせき)(臨済宗の禅僧)の勧めによって一国一寺、全国60余州に建立しようとした寺院です。

播磨の安国寺は、東条川を見下ろす高台に建立されたもので、賀茂郡(かものこおり)の東渓にあるところから、東渓山安国寺と呼び、固山一鞏(こざんいっきょう)を開祖として暦応2年(1339年)に建立されています。

当初は七堂伽藍をそなえた寺院でしたが、度重なる火災によって焼失したと伝えられています。
※ちなみに、播磨国賀茂郡の東部を賀東郡(加東市と小野市)、西部を賀西郡(加西市)と呼ばれるようになりました。
【寺伝】

「東渓山というは、賀茂郡の東渓にあるによるという。安国寺と称するは、足利尊氏国家の安全を祈るためによるという。始めて建立せられし時(暦応2年(1339年))は寺領二百石七堂伽藍悉く備わり、二十有余の寺院ありしとか。天正年間三木城の攻落の際、兵火にかかり、その後、天明3年・文久元年にもまた火災に罹れり。今の本堂は、明治二十九年に建てられしものなり」
寺の記録では「天正元年に至り、三木城主別所長治が織田信長の旗下に降らざるを以って、羽柴筑前守秀吉を総大将として信長は三木城を攻略させんとした。これに先立ち、別所長治は東條の地を従えんとしたが応ぜざる為、火を放ってこれを焼亡した。当寺も又同時に灰塵となり僅かに仏殿一宇、本尊釈迦如来像、十一面観音菩薩像、開山固山一鞏大和尚像など一部を残すのみにて七堂伽藍悉く消失した」
【本堂および石庭】


本堂は、明治29年(1896年)に再建されました。巨石と、波紋による「枯山水」の精神を伝える石庭が、本堂に面しています。
【室町幕府6代将軍 足利義教「くじ引き将軍」】

鎌倉幕府を倒し、建武の新政を打ち立てた後醍醐天皇と足利尊氏が対立、足利尊氏が勝利して室町幕府を成立させるも、今度は足利尊氏と弟・直義が対立する「観応の擾乱」(足利幕府の内紛)が続きました。(観応2年(1351年)、光明寺合戦:弟・直義方石堂頼房が光明寺に城を築き、城の西北の引尾山に尊氏、南の八幡山に赤松則祐が構えて激しく攻め立てるも勝負がつきませんでした。後に兄弟は和睦しました)
それから足利幕府も尊氏から2代義詮、3代義満と世代が変わり、6代義教の時、赤松円心からひ孫にあたる赤松満祐の時代に事件は起こります。
足利4代将軍義持の死去と嫡子(5代将軍)の早世により、嗣子がいなくなりました。そこで、群臣たちが評議の結果、出家していた義持の弟4名の中から、くじ引きで次期将軍を選ぶこととなり、6代目将軍に決まったのが青蓮院門跡義圓改め義教だったのです。
6代将軍義教は、自らの権威を強化しようと重臣の守護大名である斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏などの家督相続に強引に手を入れたり、公家たちの所領を没収したり、場合によっては謀殺したりなど強引な政治を行い「万人恐怖」と言われました。
【嘉吉の乱】

赤松満祐と義教は、当初は良好な関係だったようですが、次第に権力を強め始めた義教は、満祐の弟の領地を没収したり、自身の播磨や備前も没収、さらに暗殺計画があるといった不穏な噂が出始めます。疑心暗鬼となった満祐は、関東での乱(結城合戦)鎮圧の祝賀会と称し、京都西洞院二条にある自邸へ義教ほか当時の幕府重臣を招き、将軍義教ほか、その場にいたほとんどの者を討ち取ってしまいました。嘉吉元年(1441年)6月24日のことでした。
足利義教を暗殺した赤松満祐は、義教の首を奉じて播磨国の拠点として築いた河合城(小野市)に入りました。このとき、数千の武者行列、隊列中央あたりの武者槍先には白い布で包まれた将軍の首が吊されていたと伝わります。
その後、足利氏ゆかりの安国寺まで首を運び、播磨国の禅僧を多数集めて盛大な法要を営んで葬ったと伝えられています。
別名「堀殿城」とも呼ばれ、室町時代に播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されました。
東西約400メートル、南北約300メートルの城域を有する東播磨屈指の大城郭でした。主廓部は「源氏屋敷」と呼ばれ、その周囲に土塁と堀が巡っていました。さらに堀の外側には、東の廓と西の廓があり、三つの廓から構成された平城であったようです。
【足利義教の首塚】

足利義教を祀る御廟は、本堂の谷を隔てて裏側にあります。5月にはコウホネの黄色い花が、8月には蓮の花が池一面を覆います。
この池端から石段を上がると、三方が白壁に囲まれた木立の中は、一面苔むしてひんやりとしており、当時を回想するにはふさわしい雰囲気が醸しだされています。

御廟には、「義教の首塚」と呼ばれている宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建立されています。格狭間が刻まれた基壇の上に配置されたもので、基礎から宝珠までの全てが整い、肉厚の反花座を刻んだ基礎には、三方に格狭間が刻まれています。

塔身の四面には蓮華座の上に月輪を描き、その中に梵字が刻まれています。笠の隅飾突起はやや外に開く程度で、室町時代の形式であり、義教公の供養碑として嘉吉の乱から年月を経ずして建立され、大切に供養されてきたことが窺えます。

余談ですが、この首塚には(不思議と)草が生えないということです。確かに苔むした塚で、雑草が生えていません。
【世界に一つ!加東遺産】次回もお楽しみに
【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第9回は安国寺と足利義教の首塚について詳しく紹介しました。
次回の更新をお楽しみに。
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