加東人物伝~歴史を刻んだ開拓者たち 藤川禎次【加東古は語る】 #007

その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。
奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。
そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えます。

明治28年(1895年)5月8日、加東郡滝野村ノ内高岡村に一人の男の子が生まれました。
父は藤川住太郎、母はとら。
藤川家の長男として生まれた子、名前を「禎次(ていじ)」と名付けられました。
後に酒米「山田錦」を生み出した人間になろうとは、この時は誰も思いませんでした。

兵庫県加東市「市制20周年記念事業」

農学校時代の禎次(3列左から5番目)

禎次は幼いとき、両親や妹に先立たれ、5歳余りにして孤児となってしまった。叔母や叔父の家を転々としながら父住太郎の実弟 稲坂吉之助に養われることになり、高岡尋常小学校(現滝野南小学校)、滝野尋常高等小学校、そして明治43年(1910年)、兵庫県立農学校に進学しました。

出典:上下とも「藤川禎次~その生涯と背景~」より

禎次は県立農学校を大正2年(1913年)に卒業後、高等農林に進学したかったようであるが、養父の稲坂吉之助は許さなかった。吉之助は生家の藤川家が没落、日に日に廃家になっていくのが辛かったのだろう。禎次には藤川家を継いでほしかったようだ。
禎次は一時早稲田大学文科の予科聴講生となり、文学や法律などの知識を学んだようであるが、吉之助は断固と反対し連れ戻したようである。

■滝野村役場時代

滝野村役場時代の禎次(後列向かって左) 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

禎次は大正3年(1914年)滝野村役場に書記として就職したが、のち農業技手となり稲の栽培法などの研究に従事した。

大正11年(1922年)3月10日発行瀧野村村報の一部 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

その道何十年というベテラン百姓たちを相手に、稲作の講話も積極的に行った。
禎次自身も彼らのおかげで学び、自ら鍛えることができた。また、多くの関係者らから認められるきっかけにもなった。

禎次宅:平成13年(2001年)サンテレビで紹介されました。(後ろ姿は落語家の桂あやめさん) 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

叔父の吉之助は禎次に早く身を固めさせようと、家を建て、自分の娘(四女きぬ)を嫁がせることにした。大正5年(1916年)のことでした。

子ども達と禎次(右の端) 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

その後、大正5年(1916年)に長男が誕生し、昭和9年までの間に7人の子どもに恵まれましたが内3人を早くに病気などで失いました。

■青野原新田開発

「喜一郎東上之の図(写)」 作者・年次/不詳 河高大久保家所蔵 大久保喜一郎と弟藤五郎の兄弟だと 言われています。

禎次が暮らす高岡村は元々、江戸幕府直轄の原野でした。徳川八代将軍吉宗は、幕府の財政難を
切り抜けるため収入の増加をはかるべく新田開発に精力的に取り組みました。播磨国青野原新田もその一つでした。
享保4年(1719年)、河高村の庄屋であった大久保六郎兵衛(喜一郎)政重が青野原新田の開発を幕府に出願し許可が下りました。

六郎兵衛は嫡男の喜一郎政甫、実弟の藤五郎政恒ら一族を伴って青野原に移住し新田開発のため精力と財産を傾注しました。

出典:滝野町40周年・加古川舟運400周年記念 特別展「流域の問屋・蔵元・掛屋・庄屋」 編者:加古川流域滝野歴史民俗資料館

加東市高岡の稲荷神社境内には立派な大久保喜一郎の銅像があります。
昭和4年(1929年)に政重の生前の功に対し贈位があり、それを記念して稲荷神社の境内に銅像が建てられた。
しかし、戦争による金属回収令で寺の鐘などの強制供出が始まり、喜一郎の銅像も日の丸をつけて供出されました。

現在の喜一郎像は、昭和45年に、鹿島建設の4代目社長の鹿島守之助が祖先の慰霊のために銅像を鋳造させ高岡地区に寄贈したものだということです。
喜一郎政重から数えて6代目の喜一郎政村は揖保郡新在家村の永富定政の三男でした。この定政の長兄永富定村は鹿島守之助の曽祖父に当たることから鹿島守之助は喜一郎政村の霊を慰めようと喜一郎政重像を再建して、高岡村に寄贈したのです。

新田は幕末まで「青野原新田」と称され幕府の直轄領でしたが、明治新政府のとき高岡村となり、さらに明治22年(1889年)4月1日に上瀧野村、下瀧野村、光明寺村、河高村と合併し滝野村となりました。
滝野村は大正14年(1925年)4月に町制施行して滝野町に、そして昭和29年(1954年)3月31日に加茂村と合併して滝野町となりました。
その後、平成18年(2006年)3月20日に社町、東条町と合併して加東市が誕生。まもなく20年の節目を迎えることになるのです。

■酒米の品種改良

戦前の兵庫県立農事試験場本館(明石市) 出典:「山田錦物語」兵庫酒米研究グループ

さて、藤川禎次は大正15年(1926年)4月10日、兵庫県内務部農務課勤務となり、農業技手として加東郡農会に駐在して農業指導の仕事をするようになりました。

兵庫県では、県立農事試験場の種芸部が中核となって酒米の人工交配により、品種改良をするようになりました。そして明治末期から大正にかけて山田穂、渡船など多くの品種を作り出し奨励品種としてきた酒米ですが草丈も長く倒伏する癖もあり、農家は酒米生産を好みませんでした。

その頃、明石の県立農事試験場では山田穂を母に、短稈渡船を父として人工交配して生まれた「山渡50-7」の新品種を生み出しました。大正12年のことでした。

◆父「短稈渡船」

「渡船」は江戸時代からあった品種です。地域によって「雄町」とも言われていましたが明治28年に渡船と命名されました。
大粒で心白があることから酒米として評価が高く、明治・大正時代の酒米の代名詞でありました。その後、丈の短い短稈として改良された品種です。

◆母「山田穂」

もともと明治のはじめ頃から県下各地で栽培されていた優れた形質の酒米品種です。
この山田穂の由来は諸説あると言われています。

①多可郡東安田村(現多可町中区東安田)

明治のはじめ、東安田村の山田勢三郎は自分のほ場の中から穂丈が長く粒の大きい稲を発見。それを試作すると好適な酒米であることがわかった。その種子を農家に分け与えた。人々はこの稲に勢三郎の姓を冠し山田穂と名付けた。

②美のう郡吉川谷(現三木市吉川町)

年代は不明であるが、美のう郡吉川谷の田中新三郎が伊勢参りの帰りに三重県の伊勢山田付近から持ち帰った稲穂に由来し、伊勢山田の地名にちなんで「山田穂」と名付けられました。昔から伊勢参りや札所巡りなどの旅の行く先々から新品種や新農法の導入も旅の目的の一つであった。

③山田村藍那(現神戸市北区)

その当時、山田村藍那の東田勘兵衛が、大阪河内の雌垣村に質の良い大粒米のあることを伝え聞き、その種子を入手して山田村藍那で栽培を始めた。明治23年の博覧会で品質が良かったので日本一の折り紙を付けられた。その後、近隣に拡大し、地名にちなんで「藍那穂」または「山田穂」と言われるようになった。

④東条谷の山田

明治のはじめ頃、ある老農が自分の田で突然変異した大粒の稲穂を発見、それを増殖したもので主として東条谷の山田(山間の棚田)が栽培に適していたので「山田穂」と呼ばれるようになった。

■酒造米試験地の新設

酒米試験地(旧庁舎)加東郡福田村沢部 出典:「東条の山田錦」東条山田錦フェスタ実行委員会

兵庫県立農事試験場で生まれた「山渡50-7」ですが、果たして産地の環境に適応するか。人工交配した品種であるが故に遺伝的均一な状態が続くかどうか等、大きな問題が残っていました。そこで、兵庫県は全国でも例のない酒米の品種改良と栽培法の改善を酒米の適地において行うことを目的に、昭和3年(1928年)に酒造米試験地を加東郡福田村沢部(現在の加東市沢部)に新設。初代主任(責任者)に兵庫県内務部農務課勤務、農業技手として加東郡農会に駐在して農業指導をしていた藤川禎次を命じたのです。

そして、この福田村沢部の地に「山渡50-7」がやってきたのは昭和7年(1932年)。この日から禎次の苦労の連続が始まりました。
いもち病にかかりにくいか、収穫量はどうか、肥料に関する試験、日照に関する試験、酒米としての特性評価試験など様々な角度から取り組んだ。その仕事は地味で忍耐力の要る仕事でした。

稲穂をスケッチし、一粒一粒の成長を記録した 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

禎次は、試験地だけでなく、美のう郡奥吉川村金会(現三木市吉川町金会)に委託田をつくり、ここでも研究を行いました。ここでは約20種類の酒米試験が行われていました。

当時現地試験を行ったと見られるほ場(三木市吉川町) 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

滝野にある禎次の自宅から沢部の酒米試験地へは7km、試験田のあった奥吉川までは約20kmあった。もちろん道路は整備されていない。曲折と長い坂の多い山間部のでこぼこ道を雨の日も風の日も自転車で通った。当時の自転車は材質も悪く重い。故障してもパンクしても買い換えることができない時代、タイヤチューブには新たに貼れるところが見つからないほど補修がしてあった。そのような日々を実に16年もの間続け、禎次は酒米の研究に打ち込んだのです。

■山田錦の誕生

兵庫県農会通信第304号 出典:「山田錦物語」兵庫酒米研究」グループ

その後、委託田は兵庫県全域で広く行われ、有馬郡三田町、神埼郡鶴居村、佐用郡三日月村そして県北部の城崎郡五荘村でも試験が行われ、いずれも「山渡50-7は短稈多げつ(茎や穂の数が多い特性がある)にして収量多く品質も概して良く栽培容易にして有望と認めたり」と評価が高かった。

昭和11年(1936年)1月31日(金曜日)午前11時から兵庫県立農事試験場で水稲原種改廃協議会が開催された。当日は穏やかな日差しが差し込む好天であったという。
会議の資料は唯一「兵庫県農会通信第304号」の記事に残されているのみである。

見出しには「新原種に近畿9号、山田錦―保村8号、外3種廃止 本県原種改廃協議会で」

本文「県経済部農産課主催の水稲原種改廃協議会は1月31日午前11時より県立農事試験場で開催。郡市農会技術員、米検支所長の外、県農会長島幹事、農事試験場江角場長、三宅、河淵技師その他穀物検査所副島、高見両技師、主催者側副見経済部長、島原農産課長、西田、長尾技師以下係員等約60名出席。副見経済部長座長となり左記協議事項を説明し、三宅、河淵両技師、堀之内技手より夫々説明をなしたる所、新たに原種に編入せむとする「昭和」を「山田錦」に改名したる外、概要次の如き意見の発表ありて結局原案を承認し、ついで指事項を附議し異議なく午後3時半閉会した。廃止せむとする保村8号は城崎、宍粟より又新山田穂2号は東播地域より今暫く保存の要望があったが県下の普及歩合より見れば僅々2%以下のものであり且つ逐年減少しつつあるを以て結局廃止に決定。

協議事項
一 水稲原種改廃に関する件
農事試験場に於ける試験成績並原種の普及状況に鑑み水稲原種を左の通り改廃せむとす。
甲 新たに原種に編集せむとする品種
①近畿9号(中略)
②山田錦 本種は山田穂と渡船との人工交配に依り選出せられたる品種にして草丈短く品質優良にして且つ収量多きを認めたるを以て原種に編入せむとする(決定)。
乙 廃止せむとする品種(中略)
新原種の特性・農試本場成績
山田錦 (来歴)当場に於いて大正12年「山田穂」を母とし「短稈渡船」を父として交配を行ひ爾来当場に於いて選抜固定し昭和6年「山渡50ノ7」と命名せるものなり。
(特性)中生種の酒造米にして短稈多蘖(たげつ=植物の切り株や根元から生えてくる若芽)にして倒伏せず栽培容易なる多収良質の優良品種にして摂播中北部に好適す。」

「郡市農会技術員、米検支所長外、県農会長島幹事、農事試験場江角場長、三宅、河淵技師その他穀物検査所技師、主催者側副見経済部長、島原農産課長、西田、長尾技師以下係員約60名出席の基で、副見経済部長が座長となり、「山田錦」の原種への編入等の協議事項について夫夫説明ののち協議し、「昭和」を「山田錦」に改名した外は原案通り承認された」
閉会は午後3時半とあり、4時間半に渡って厳格に審査された様子が伺える。

育成担当者にとっては「山田錦」を原種に編入するとの声を聞いたとたん胸をなで下ろしたことであろう。この瞬間が「山田錦」の誕生である。
なお、本決定事項は昭和11年2月27日付兵庫県報第1065号で告示された。

出典:「山田錦物語」兵庫酒米研究グループ

原種改廃協議会において、はじめに用意された品種名は「昭和」であったようです。
酒米試験地に残っている藤川禎次の原種改廃協議会の資料にも、手書きで昭和の記入が残されていました。
なぜ昭和ではなく山田錦だったのか。
資料不足で定かではありませんが、当時、山形の育苗家が「昭和○号」という昭和を冠した品種を育成していた。それらと混同を避けるためではなかったかと推測されています。
これらの情報が山田穂を母とする「山田」、錦は当時の稲の品種に一般的に使われていて使用したのではないかと考えられています。

■秋霜

禎次酒米試験地を去る日 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まり、国内の生活物資も足りなくなりました。そのような状況下で田んぼに酒米を作ることは非難の声も上がります。ましては酒米の研究、開発などできません。兵庫県は昭和19年(1944年)方針転換せざるを得なくなり、酒米の研究はいったん中止になりました。
山田錦が再び世に出るような平和で繁栄した時代が来るのか。前途を絶望した禎次はこの年4月に退職を願い出て辞表を提出しました。16年間の山田錦の研究も終わりました。

昭和20年(1945年)ころ 禎次50歳 出典:「藤川禎次~その生涯と背景~」

禎次は昭和21年(1946年)の春頃から喉に異常を訴えるようになりましたが決して医者にかかろうとはしませんでした。
体は7月になってますます衰弱し、務めていた農業会に休職願を出した。そしてついに医者に往診に来てもらったが、もはやお粥を勧められても飲み込む力もなくなっていた。
11月14日は、空が限りなく澄み渡っていた。きぬが南側の障子を開けた。禎次には外の景色が見えたであろう。畑の柿の木に実が2~3付いていた。養父の稲坂吉之助が植えたものである。きぬが柿を取ってきて差し出したが、ただただ涙を浮かべるだけであった。
翌11月15日の朝、家族が見守る中、禎次の呼吸が小さくなった。急いで水を含ませようとしたが喉がかすかに鳴り、山田錦の行く末を見届けることなく51歳6か月の生涯を閉じた。

■山田錦の復活

全国新酒鑑評会の会場風景 出典:「東条の山田錦」東条山田錦フェスタ実行委員会

戦後も落ち着き始めた頃、国税庁は、おいしい日本酒の酒づくりを奨励するため、「全国新酒鑑評会」を再開するようになりました。
中でも特に優れたものに金賞を与えました。酒米の王様と言われる山田錦を使い、それを6割も7割も削ったお酒が何回も金賞を受賞しました。
こうして山田錦が全国の酒蔵から注目されるようになり、名声も高まりました。
農家の人たちの努力と酒蔵の人たちの匠の技で禎次が育てた山田錦の生産量は急激に増えていきました。

精米された山田錦 出典:「東条の山田錦」東条山田錦フェスタ実行委員会

■特A地区

(特に品質の良い山田錦が収穫されるのが特A地区です)

・場所

兵庫県の六甲山北側から三木市、加東市に至る北播磨地域に位置しています。具体的には、加東市社地区、加東市東条地区、三木市吉川町が「特A地区」の中でも最高峰の産地とされています。

・土壌

2500万年から200万年前にできた凝灰岩や頁岩が風化してできた粘土質の土壌が特徴です。この粘土質の土壌は水はけが良く、山田錦の栽培に適しています。

・気候

昼夜の寒暖差が大きいこと、日照時間が長く比較的温暖な瀬戸内海式気候であることが、山田錦の生育に適しているとされています。特に東西に開けた谷あいの棚田地帯が多く、日当たりが良いことも特徴です。

・品質

特A地区で栽培された山田錦は、大粒で心白(米の中心にある白い部分)が大きく、タンパク質や脂質が少なく、粒張り・粒揃いがよいため千粒重が大きいという特徴があります。これにより、雑味が少なく、味や香りが豊かでバランスの取れた日本酒が生まれます。

■藤川禎次特別賞の創設

牧野地区のほ場 出典:「東条の山田錦」東条山田錦フェスタ実行委員会

山田錦の育成・普及に尽力した藤川禎次の名前を冠した賞を山田錦の生誕88周年(米寿)に合わせて令和5年度、兵庫県酒米振興会が創設しました。山田錦の生産技術の向上や地域貢献などに著しい功績のあった団体に授与されます。
第1回目の受賞団体は、山田錦の種子生産を長年担っている加東市牧野の加東種子生産組合牧野支部でした。

■日本農業遺産に認定

2025年1月24日、『兵庫の酒米「山田錦」生産システム』が日本農業遺産に認定されました。日本農業遺産は全国の28の地域で認定されていて、加東市のある兵庫県北播磨地域では初めてです。
・酒米の特性と気候風土を生かした江戸時代から続く伝統的な栽培技術
・生産者と蔵元の結びつきによる「村米制度」
これらが「山田錦」という特別な酒米の価値を高め、高品質な酒米の一大産地を築いてきたことが認められました。
加東市は、市内の多くが産地格付け最上である「特A地区」に指定されていて、村米契約は10の地区で結ばれています。生産者と酒蔵のつながりが強く、加東市産山田錦を使った日本酒が全国各地で醸されています。
この認定が、加東市産山田錦の素晴らしさをさらに多くの方に知っていただくきっかけになることを期待しています。

■加東市制20周年記念事業「乾杯まつり」の開催

画像引用:加東市「【市制20周年記念事業】加東市「山田錦」乾杯まつり2025」

「山田錦のふるさと」加東で収穫される山田錦は、酒米の最上級品として多くの酒造会社で醸造され、様々な名酒となり全国で愛されています。
加東市「山田錦」乾杯まつりは、加東市産山田錦で醸された名酒が全国から大集合し、当日は、各酒造会社による名酒の試飲、販売のほか、地元グルメや酒器の販売なども開催されます。

【市制20周年記念事業】加東市「山田錦」乾杯まつり2025

特設ページはこちら
日時:
令和7年9月21日(日)10:00~14:00
会場:社中央公園ステラパーク(加東市中央図書館南側)
主催:加東市「山田錦」乾杯まつり実行委員会


参考・出典:
・藤川禎次~その生涯と背景~(片山洋子編)
・山田錦物語~人と風土が育てた日本一の酒米(兵庫酒米研究グループ)
・東条の山田錦―日本一の酒米ができるまでー(東条山田錦フェスタ実行委員会)
・酒米の王「山田錦」を育てた男~不屈の魂 藤川禎次~(加東市)
・山田錦特A地区50周年のあゆみ(兵庫酒米特別地域振興会)
・語りつぎたいふるさと滝野(滝野町)
・そこが知りたい滝野の歴史(滝野町)
・山田錦物語(吉川町)
・滝野町40周年・加古川舟運400周年記念
特別展 流域の問屋・蔵元・掛屋・庄屋(加古川流域滝野歴史民俗資料館編)
・新修加東郡誌(加東郡教育委員会)
・鹿島守之助没後50年特別連載「第1回 守之助揺籃の地と永富家」(月報KAJIMA2025年4月号)
(引用元の記載なき画像は筆者撮影による)


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