本記事内の画像・文章は一部書籍より引用しています。
出典元:『大門誌』(大門誌編集委員会/社町大門/平成4年発行)・『加古川舟運の研究』(吉田省三/滝野町/平成6年発行)
文責・出演:加東市観光協会 西山
様々な情報を発信する「広報かとう」。
毎月15,600部が発行されている。毎月楽しみに読んでいるのは私だけではないでしょう。なかなか読む時間がないという御仁にはパソコンやスマートフォンでも読めるようになっている。地域の図書館ではバックナンバーも置いてある。
かとうトリビューンでは、毎月の広報かとうから私の独断と偏見で気になる記事を「深堀り広報」としてお届けします。どうぞ、お楽しみに。
【かとうまちかどトピックス】
四代目となる「大門橋」開通

令和6年12月21日、加東市大門と小野市復井町の市境にある「県道 松尾青野ケ原停車場線 大門橋」の開通式が行われました。式では、橋の周辺にお住まいの親子三世代による渡り初めが行われ、新しくなった橋を踏みしめながら歩かれていました。「とても綺麗になった。道の幅も広くなったので、自転車も安心して通ることができるので、嬉しい」と話されました。
広報かとう2025年2月号より
さて、このたびの大門橋は四代目。
初代、二代目、三代目はどんな橋だったのでしょう。
【初代】
明治32年5月開通。木造。幅員4m、長さ120m、施工者・経費は不明。明治39年に洪水により流失。

青野ヶ原が陸軍演習場になり、日清戦争を控えて輸送上の急務があったと考えられます。
郡長以下、多数の来賓を迎えて盛大な祝賀の記録が残っています。写真馬上の人は、渡り初めの郡長であろうか。

現在から見れば実に華奢な橋桁。だから明治39年の大洪水の時に跡形もなく流失してしまったのか。
古老の伝承によれば、橋流失の危険が迫ったとき、村人総出で橋桁と岸辺の大木をロープで縛りつけたが何の役にも立たなかったという。
【二代目】
明治41年10月開通。木造。

初代大門橋の南へ3mの位置に幅員4mの橋を架橋、総工費164円50銭(うち村内寄付114円50銭、他村寄付35円、福田村補助15円)。
竣工式には県知事をはじめ来賓多数、村内外より参集者約2,000人と言われた。橋上の群れや下の喜びの様子があらわれています。
祝賀会
第1 来賓式場ニ集ル
第2 式ヲ挙グ(橋上)
第3 宴会(川西堤防)
第4 餅撤(橋上ヨリ)
第5 相撲(川原)
第6 ボートレース及び半桶競争
第7 村内宴会(八幡神社内)
写真手前の新部井とその石垣は昭和39年に完成した三井堰と共に姿を消しました。

江戸幕府の政策により、川に架橋が許されなかった。渡河は渡し船によりました。
東岸の生い茂る樹木、渡し場に見える高瀬舟らしい姿。その南に中港と荷の揚げおろしのはしけ。

橋の欄干のスマートさ、4m道路の砂利道、大歳神社前の大木、当時の服装など郷愁を感じます。
”加東郡福田村大門より河合村復井に通ずる縣道加古川に架かる大門橋が五日午後一時ごろ全長六十餘間のうち二十餘間が突然墜落した。幸ひ通行人もなし人畜には被害なかったが同橋梁は非常に交通頻繁なのに加へ雨後のことゝて水量増加し渡船も不通で非常に困つてゐる。原因は腐朽のためで同橋は明治四十一年九月に架けた橋で約二十餘年を経過してゐる”

(昭和4年10月の新聞記事より)

橋の袂の古老によると「十月五日の昼過ぎ、播鉄大門口駅発天神行の乗合バスが通過した後、『ドーン』というものすごい音がした。驚いて飛び出してみると、土煙の下に橋が落ち、川水が渦巻くように流れていた」という。幸に通行人は無くけが人も出なかった。
対策としてすぐに渡し守りを雇って昔のままの「渡し船」を出した。所用の人や青野ヶ原へ茸狩りの人などがよく利用した。大門の人は無料であったが、他村の人は若干の渡し賃を貰った。渡しの時刻も決まったものでなく、二・三人集まれば「オーイ」と手招きすれば対岸から迎えに来てくれたそうである。
【三代目】
昭和11年開通。鉄筋コンクリート造り。青野ヶ原の陸軍戦車隊が新設された関係で戦車も渡れる頑強な構造でした。

二代目の橋も木造の故に老朽化すると同時に日支事変の拡大と共に軍事的国策の必要から、長さ120m、幅員6mの架橋となりました。2代目よりも1.5m高くなりました。
位置は更に数m南へ移し、渡しの場の上とし、併せて地区内を迂回していた県道を東へ直過させました。

竣工式当日は福田村側と河合村側からそれぞれ三世代夫婦そろった家族が渡り初め、続いて児童、来賓、村人らが渡った。全員に紅白まんじゅうが配られた。午後には大門(小西の裏)で旅役者による芝居が行われたそうです。
右下には渡し船が映っています。現在と水位の違いがよくわかります。

【四代目】
令和6年12月開通。三代目が開通し88年が経過して老朽化し、幅員も狭くなったため加古川河川改修に合わせて架け替えられました。工事は平成28年から進められ、両岸地区の協力を得ながら完成しました。
全長158m(三代目122m)、橋脚3本(三代目6本)、幅員9m(三代目6m)で車道6mと両側に1.5mの歩行帯の安全な通行が確保、橋の高さも三代目より2.5m高くなりました。


【大門船着き場】
加古川は、文禄3年(1594年)から大正2年(1913年)の播州鉄道開通までの約320年間、高瀬舟が東播磨の大動脈として活躍しました。高瀬舟の役割は、加古川沿岸の領主たちの年貢米や商人米を高砂港へ積み下ろすことでした。そのため、川沿いの村には河岸(かし)と呼ばれる船着場と物資集積の町場ができました。

加古川中流に位置した「大門河岸」には、わたし場(大歳神社西)、中ミナト(洗濯場)、下ミナト(水神さんの下)の3ヶ所の船着き場があり、高瀬舟の港として栄えました。

この地には、多数の商業資本家が住み、沿岸きっての町場でした。
また、明治32年(1899年)に大門橋が架橋されるまでは、渡し舟の発着場としても賑わったといいます。

江戸中期より大庄屋と掛屋兼ねた豪商で、醤油・酒の製造、塩その他の販路は大坂から姫路まで及んだそうです。屋敷の広さは約千坪に及び、大黒柱・梁・門構えの豪壮さなどは目を見張るものがあります。
現在では昭和39年(1964年)に完成した三井堰により、岸のすぐ下まで満々と湛えていた水位が約2m低下し、川底が露出して、船着き場もわずかにその名を留めるだけになっています。

4代目の大門橋とともに新しい時代を生きていく子供達の安全と成長、そして地域の繁栄を願います。
なお、3代目の大門橋は役目を終え、これから撤去作業が始まります。長い間お疲れ様でした。



