【加東古は語る #010】加東の道標2~幾歳月の時を越えて~

その昔、この地は「針磨鴨国(はりまかものくに)」と呼ばれていました。
奈良時代、大化の改新後、播磨国賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡、賀東郡に分かれ、やがて、加東郡から小野町が市制施行し離脱。社町、滝野町、東条町が合併し加東市が生まれました。
そして、令和8年3月20日に加東市は誕生20年の節目を迎えます。

加東市は昔から交通の要衝と言われています。

京街道や大坂街道、高砂街道や西国三十三番霊場、加東四国八十八番霊場の巡礼道など「道」が市内を縦横に通り、多くの人々が往来していました。現在でも中国自動車道や国道175号、372号などが通る北播磨の交通の要衝となっています。

兵庫県加東市「市制20周年記念事業」 

道は今も昔も人や物、文化や経済が行き交う役割を果たしてきました。ときに戦の道であったり、ときに祈りの道であったり、人々の怒りや憎しみ、喜びや悲しみを運びました。そんな人々を、いつも見届けていたのが道ばたの道標です。

幾歳月の時を越えて、今も佇む加東の道標。今回は加東の道標パート2をご紹介しましょう。


▼加東の道標パート1はこちら


【歴史の道標】

東条川に沿って走る県道75号小野藍本線から、ローソン加東厚利店のT字交差点を入ると一般に学園道路と呼ばれる県道564号厚利社線に入ります。

県道小野藍本線は令和7年10月に松沢バイパスが開通、狭小な道路から歩道付きの安全な道路になった

この県道厚利社線に入り社方面に走っていると、しばらくして右手に小沢分団消防器具庫が見えてきます。奥には小沢公民館があります。
左右にゆっくりくねりながら走るとのぼり坂道が見えてきます。この辺りは小沢地区と栄枝地区の境になり、右手には中世の山城、小沢城(依藤城)があった小高い山が見えてきました。

写真中央の小山に小沢城(依藤城)があった

小沢城(依藤城)の城址には記念碑が建立されています。

「(平安時代末期)文治二年(1186年)三月、正五位山城守宇野豊季(とよすえ)の築くなり。氏は村上帝(第62代天皇)の後裔(子孫)にして、右大将頼朝公(源頼朝)に属し武威海内(武力を以て天下を平定した)に輝いた。曽我豊郡が城の地名をもって氏とした(依藤性)。正統連綿として天正六年(1578年)四月恒殷故あって兵端を開き城郭は破壊せられた。嫡子豊有おさなくして民間に転居し、その孫豊峯同郷の字辻の地に移住、久範にいたって地名をもって氏とした。依藤山城を築城してから700余年を経た」と陰刻されています。

城址に立つ記念碑(「東条の道標巡覧記」より)

【播陽古城記「依藤山ノ城 加東郡吉田庄東条谷小澤村」より抜粋】

62代村上天皇―具平親王―師房―顕房―雅實―雅定―定房―定忠―師季―季房―季則―頼範―為則―為景―豊季(東条谷依藤山に新たに城を築いた)―豊範―為頼―豊郡(依藤の地名を以って苗字とした)―豊康―康詮―豊光―豊澄―豊武―頼季―豊勝―豊治―豊房(依藤山から土沢(大畑)に移りまた小田城に移る)―惟次―光勝―豊就―就安―豊之(小田城主)―(長男)豊久―(次男)恒殷(依藤山城主)―豊有(民間に転居)―豊峯(辻に移住)―久範(辻の地名を以て苗字とした)

小沢城は南西に張り出した丘陵に築かれていました。
標高130mほどの山頂に主郭を中心に北東と南東下に段があり、二郭、三郭がありました。
この城の南麓の字が「依藤」であることから依藤城ともいわれています。

小沢城郭図(「東条の道標巡覧記」より)

【嘉吉の乱】嘉吉元年(1441年)

室町時代の播磨は守護赤松氏の領国でした。
そんなとき、足利将軍6代義教は万人恐怖政治と言われ強引な政治を行いました。当初は良好な間柄であった播磨守護の赤松満祐は京都で足利義教を暗殺します。
満祐は討ち取った義教の首を今の加東市新定にある安国寺に運び盛大な法要を営んだとあります。本堂の裏手には「義教の首塚」という宝篋印塔が建立されています。

宝篋印塔

【応仁の乱】

足利幕府6代将軍義教暗殺後、嫡子の9歳になる義勝が7代将軍になるも翌年に急逝、その弟 義政が8歳で8代将軍に就任しました。嘉吉の乱から8年後、文安6年(1449年)のことでした。
その後、将軍家や幕府領家などの家督争い、後継者問題も含んで勢力が東西に分かれ、応仁元年(1467年)から応仁の乱が始まり、およそ11年間続きました。主な戦場となった京の都は壊滅的に荒廃しました。

応仁の乱京都『真如堂縁起絵巻』

【三木城 別所長治】

播磨国も嘉吉の乱後、赤松氏の失脚、山名氏による残党狩りなどを経て、赤松氏再興の6代当主政則の時代まで戦国時代の前哨戦として歴史の渦に飲み込まれていきます。

この頃、中国地方は毛利輝政、畿内を制しつつあったのが織田信長。
毛利氏と織田氏との間にある播磨は緩衝地帯として保っていましたが、毛利氏が反織田氏に踏み切り、播磨の武将も毛利方、織田方の入り乱れた戦場となりました。
その内の一人、三木城の別所長治は当初、織田氏に従っていましたが天正6年(1578年)に織田氏から離反、三木城にて毛利氏の援軍を待つことになりました。
信長は播磨平定のため、すぐさま羽柴秀吉を送り、天正6年(1578年)3月29日、秀吉は三木城包囲を開始しました。

別所長治像(三木市立みき歴史資料館)

【細川城】細川荘(三木市)

この三木城から北東へ7キロほどの所に細川城がありました。
細川城は細川荘を支配するために公家が造った城です。藤原定家を先祖に持つ歌道の名門下冷泉家代々の荘園で、歴代当主は細川と京とを往復する生活をしていました。
しかし、応仁の乱勃発に伴う京都の荒廃により冷泉政為が細川に下向、細川荘を治める拠点として細川城を築いたようです。
細川政為以降、為孝―為豊―為純―為勝の当主が居宅として使用しました。

現在の細川荘(三木市細川町桃津付近)(三木市立みき歴史資料館)

【依藤氏(小沢城)の最期】

別所長治は細川城の冷泉家に対して反織田になるよう誘いましたが、当時の領主であった冷泉為純と長男の為勝がこれを断ったため天正6年(1578年)4月1日、別所氏は細川城を家臣に攻めさせました。
このとき小沢城主であった依藤藤太郎左衛門(依藤恒殷)が救援に駆けつけたが敗れ、為純は討死。為勝と依藤太郎左衛門(恒殷)は依藤野に逃れますが、やがて自刃して果てました。
県道564号厚利社線沿いには、自刃の碑と墓石があります。

県道厚利社線沿いにある案内看板
冷泉家為勝・依藤太郎左衛門の墓石
自刃之處の碑

依藤太郎左衛門(恒殷)の自害により城郭は破壊させられ、子どもの豊有は幼くして民間に転居し、その孫豊峯は同郷の字辻の地に移り、久範になって地名(辻)を氏としました。小沢城を開いてから700余年を経たときでした。

【三木合戦「三木の干し殺し」】

秀吉は三木城の兵糧を阻止、一般に「三木の干し殺し」と言われ、天正8年(1580年)1月17日、城兵の命を助けることを条件に別所長治一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦は終結しました。

三木合戦軍図(羽柴秀吉平井山の陣)(掛け軸複製)(三木市立みき歴史資料館)
三木合戦軍図(別所長治切腹)(掛け軸複製)(三木市立みき歴史資料館)

【本能寺の変】

播磨を制した秀吉は姫路城を拠点として毛利氏を打つべく中国攻めを進めました。
その最中、織田信長も中国平定のため出陣しようとしましたが、天正10年(1582年)6月2日京都本能寺において明智光秀の謀反によって自害しました。

明智光秀画像(岸和田市本德寺蔵)

本能寺の変、山崎の戦い、小牧長久手の戦いなどを経て、秀吉が事実上の天下人となりました。多くの土豪たちは、羽柴政権のもとで封建領主に転身できず帰農し、結果的に村づくりを進めることになりました。依藤氏(小沢村 のち辻と改姓)、田尻氏(念仏村)、阿閇氏(上滝野村 のち阿江と改める)、大久保氏(河高村)などがあります。

【栄枝の道標】

県道厚利社線と市道松沢栄枝線の交差点

小沢城をあとにして、栄枝地区から嬉野台地の東端依藤野へ続く急な長い上り坂にさしかかる県道厚利社線と市道松沢栄枝線の交差点。枯れ草に埋もれるように立つ背の低い道標があります。
手前に消防のホース格納箱と石灯籠の石材が重ねて置かれていました。

正面には「右 やしろ北条」「左 三木あかし」と刻まれています。
側面には「四国同行中 国依 三人」 、もう一方側面には「天保十四年(1843年) 11月立」。およそ65センチ程度の高さです。

ちなみに、現在の栄枝は明治6年(1873年)「国依(くにより)村」と「神谷(こうだに)村」が合併して誕生しました。当時禅瀧寺の滝見常住職が将来の繁栄を期す意味で「栄枝」と命名したそうです。

【東映映画『室町無頼』】

2023年10月播州清水寺の多宝塔跡でロケ。2025年1月17日ロードショー
俳優大泉洋さんが一揆を起こす武士役で主演する映画「室町無頼」のロケ地となりました。

(c)2025『室町無頼』製作委員会

播磨守護の赤松氏が足利6代将軍を暗殺した嘉吉の乱が嘉吉元年(1441年)。
その後、幕府の家督相続、武士の後継者争いなども含んで勢力が東西に二分した頃。
寛正2年(1461年)、京の都では大飢饉と疫病が襲いました。大泉洋さん演じる主人公蓮田兵衛は土豪百姓たちを取り仕切る大将として一揆が始まりました(徳政一致)。寛正3年(1462年)9月、京都、続いて奈良で蜂起しました。一時は室町幕府(花の御所)まで侵入する勢いでしたが、幕府は在京大名に一揆の鎮圧を命じ、11月2日、兵衛は一揆の大将として捕らえられ殺害、2日後、京で獄門(さらし首)に懸けられました。

応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱から大坂夏の陣までのおよそ150年もの戦国時代、そのわずかな狭間に蓮田兵衛は生き、輝き、歴史の1行に登場したのでした。小沢に城があった頃の出来事でした。


(参考文献:「東条の道標巡覧記」東条の歴史を掘り起こそう会発行、「ふるさと加東の歴史再発見」藤本百男著、「新修加東郡誌」加東郡教育委員会発行)

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